参加者からのメッセージ

私たち「ねたきりになら連」が10周年を迎えた2002年に関係者や参加者の皆様から寄せられたメッセージをご紹介します。

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思い出すこと、学んだこと

顧問 大田 仁史
(茨城県立医療大学)

 連から学んだことはたくさんあります。なかでももっとも印象深かったことは、初めて市役所前の桟敷席を踊ったときです。場内アナウンスに呼び込まれ、新のんき連の姓億さんに引導されて私たちはデビューしました。なにせ、有名連がひしめく桟敷席ですから、初出場の観たちは極度に緊張していました。有名連を呼び込むとそのたび桟敷席から大きな拍手がなります。無名の「ねたきりになら連」に拍手が少ないのはしかたのないことでした。

ぎこちなく踊りながら中場あたりにさしかかったときです。子どもさんの「がんばってえ-!」という一声で場内に大きな拍手とどよめきが起こりました。私にはそう思えました。

お年寄りに辛い思いをさせるのではと一瞬思っていましたので、大きな拍手をもらって正直ほっとしました。踊りぬいたとき「やった-!」という達成感で汗と涙。ボランティアの中学生の女の子も涙をぼろぼろながしながらテレビの取材に応えているのを聞いていましたo「今までこの桟敷で何度も踊り、そのたび感動していました。今年は、どこかのおじいちゃんの車椅子をおした、だけだけれど、今年ほビ感動したことはありません。」と。

中学生を感動でなかせたのはなぜだろう。というより、中学生を感動で泣かせた、どこかの老人ホームからきたお年寄りの存在をどう考えるべきかを学んだのです。

たしかに阿波踊りは大きなイベントです。そのせいもあるでしょう。しかし、自分ではなにもできないお年寄りでも、まわりによって作られた状況や場面、関係性のなかで他者を感動させる存在になりうるということです。

自分がつくる場面のなかで自分の心を動かす。そのようなことがとても大切であることを考えさせてくれた連の初陣でした。

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ノーマライゼーションの風 ケア付き阿波踊り

ねたきりになら連 実行委員長 石川 富士郎

「うちのおじいちゃんも昔はよう踊っていきょった」リハビリ室でのこんなやり取りから「ねたきりになら連」のアイディアが生まれた。
家に閉じこもりがちな高齢者に、もう一度阿波踊りを。もう一度あの祭りの中へ。そんな機会をっくってあげたい。そして「体が踊れば、心も躍る」というリハビリの楽しい目標にしていただきたい。そんな思いで活動を始めて10年の月日がたちました。
大きなトラブルもなく、延ベ427人の参加者が楽しまれた。彼らを支えたのが、医療・福祉・保健の専門職と学生など若いボランティアであった。
活動当初からボランティア同士のネットワークが生まれ、介護保険が始まった今、職種間の理解や連携はとても有意義であった。
しかし10年間の継続はなんと言っても”阿波踊り”のもつエネルギーにあったと思う。私たちは踊りのプロではないが、徳島の文化や伝統を大事にしていきたいと思っている。そしてあの 祭りの中に入っていくことによって、ノーマライゼーションの考えを参加者にも観衆にももっていただけたらと思っている。更にねたきりになら連の活動経験から、踊りや音楽のもつ魅力を日常に生かして、高齢者の生活の質までも考えていかれたらと思う。
今年も8月13日・市役所前での本番に向け準備が始った。私たち実行委員にとっても緊張と期待のいり混じった時間を経ながら、あの阿波踊りのエネルギーに包まれるとき、なんともいえない感動が体を面抜くだろう。今年も「踊る阿呆」の暑い夏が予感されそうだ。

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お礼状

神奈川県川崎市 渡辺 恵子

蒸し暑い日が続いております。先日は大変お世話になりました。
生まれて初めて泊まったログハウス、そこからの素晴らしい海の景色、見事な日の出「すごい」としか表現できない日の出、69年間生きてきて初めての素晴らしい日の出でした。
私たち障害者のグループとしては考えられなかった数々の体験、本当に楽しい2泊3日でした。若いため参加させていただけるかすごく心配いたしましたが、参加させていただいて美住ちゃん親子は帰ってきてからの様子が心なしか明るくなったような気が致します。演舞場で車椅子から立つ時、美住ちゃんは「ブルブル」ふるえてしまったとの事、お母さんは目が「ウルウル」になったと云っておられました。
心配していたお風呂もボランティアさんのお陰で大きなお風呂にどっぷりつかる事が出来てうれしかったと云っていました。
私は今年8回目ですが、毎年いろいろとお心配りをして頂いて心より感謝して居ります。 今年とても嬉しかったことに、石川先生の言葉がずい分良くなった事です。ご家族の支え、励まし、先生のご努力等、又実行委員の皆様方の支えがあいまって日に日に良くなって来たのでしょう。

14日の徳島新開の写真を拡大コピーしましたので同封致します。石川先生の優しさが、五十嵐さんのヒモをつかんでいられるのが印象的です。美住ちゃんは私の影で写っていないと思っていたのが拡大にしたところ、手が見えて「あ!美住ちゃん写っているよ」と電話しました。福島のおばあちゃんの所へ送ると云って大喜びです。

又、来年を楽しみにして居ります。気候の変わり目です、どうぞお身体ご自愛下さいませ。実行委員の皆様方にもよろしくお伝え下さいませ。

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ねたきりになら連と私

ねたきりになら連実行委員 橋本 アケミ

10年前、2人の息子との話題の中に「ボランティア」がよく出るようになった。学校等での活動の様子を聞くばかりで私の心の針が少し振れていた。
私も何かやりたいなあ・・・・・。
子どもたちが成長するにつれて、社会からだんだん離れ家庭だけの生活になっていた頃、ねたきりになら連発足の記事、心が激しく振れた!

阿波踊り=ゆかた これだ!!

着慣れていない方へ着せる難しさ、教え難しさ、また、いろいろな工夫が大切なこと、実際、仕事でも大いに役立った。締め過ぎない、緩くなく、手早く、美しく・・・。石川氏にモデルになって頂き、補整、紐の結び方や仕上がりまでの順番のとおりをアルバムにした。中学校への出張着付け教室、さすが2時間もすれば「様」になるものである。

私に出来るボランティアは、ねたきりになら連でご本人が楽しむことが出来るお着付けボランティアを育てることだ。11回・15回と続くにはお着付けボランティアを育てなければと心新にしているところだ。

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私の宝物=『ねたきりになら連』

ねたきりになら連実行委員会 会計 正木 光柄

私が『ねたきりになら連』のボランティアに参加して十年になります。月日がたつのは早いもので、四十代の初めだったのが今では五十代、髪の毛に白いものがちらほら混じりだし、中学三年生で最年少ボランティアとして車椅子を押して踊っていた娘が、高枕入試、大学入試と無事に済み、今では社会人に。

八月十三日の踊りの為に一年かけて、少ない予算をいかに有効に使って、参加者の皆様に喜んでいただけるか実行委員会で計画し、皆様の笑顔を見せてもらうだけで『勇気』、『元気』が出てきて、また来年も頑張ろう・・・。その繰り返しでいつの間にか十年が過ぎてしまいました。

多くの参加者の方、ボランティアの方と知り合えて、『ねたさりになら連』にも懲個人にも財産はありませんが『人財』というお金では決して買うことがでさない財産を持つことができました。今後このようなすばらしい財産を、もっと増やしていけたらと思っています。

最後になりましたが、1・周年を迎えるにあたり、皆様方からのご寄付、またバザーの商品等を多数お寄せいただきました事に、心より感謝いたします。本当にありがとうございました。今後ともご支援、ご協力の程よろしくお願いいたします。

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「ねたきりになら連」の10年

ねたきりになら連実行委員会 事務局 久米 秀昭・脇川 玄・黒川 智

平成5年に初踊りし今年で10回目を数えることになりました。この10年の間にはたくさんの方々に助けていたださ本当にありがとうございました。参加していただいた高齢者の方とその家族やボランティアには一番お世話になりました。皆様のおかげでやってこれたような気がします。皆様の元気に踊られている姿が私たちの勅みにな・りました。

私はボランティアの経験も無く、最初の年はいろいろと苦労もしましたが、石川実行委員長の「やらなければ」というやる気と大田仁史先生の勤ましや姓億政明新のんき連連長の阿波踊りに対する熱意が支えとなりました。

この「ねたきりになら連」の活動を通して障害者を元気付けるだけでなく、ボランティアをやろうという人たちの心意気や接し方を学ぶことが出来ました。小さいからとか高齢者だからできないと決め付けるのではなく私たちが一緒にやっていこうという気持ちが大切だと感じました。

今後は活動を共にする仲間として時間を共有しながら楽しく音義のあるボランティアを続けていくことだと思います。

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大いなる感動を呼ぶ、ねたきりになら連の10年

ねたきりになら連実行委員会 副実行委員長 大塚 忠廣

今年もあの熟い感動と歓喜に満ちたケア付き阿波踊り「ねたきりになら連」の夏がやってきた。今年は、第10回目と記念すべき年である。1993年(平成5年)に発足してから毎年参加者が50名前後、ボランティアは100名程が集い、一人一人の思い出深い夏を創ってきた。参加者とボランティアは全国各地から参加して頂き、遠くから毎回参加する人もおいでになる。

「ねたきりになら連」の10年間を振り返ると、様々なドラマがありトラブルがあり感動があったように思える。まず第1回は、演舞場途中で参加者が車椅子から立ち上がり手を振り踊った瞬間、会場からの大きな声援と鳴り止まない拍手は忘れられない感動であった。その感動を毎回求めて実行委員の方々は、10回までも続けられてきたのだと思う。その感動の真には、実行委員一人一人とボランティアの大変な知恵と汗が港み込まれているのである。最初の「連」づくりには衣装・小道具等を揃えるためには資金が必要であった。様々な支援を受け道具も揃った。そして、ボランティア達の募集は、新聞・ラジオ・雑誌等で公募したが、手弁当で何もかも自費で必要経費を払い参加するボランティアがどれだけ集まるか不安であったが、新のんき連と団長の姓億氏の支援は力強いものがあり、当日には156名ものボランティアたちが障害を持つ方々と阿波踊りをとおして喜びを共有しようと集まってきたのである。「ねたきりになら連」には、金銭感覚では言い表せない価値観があると確信できた。

そして翌年の第2別には、前画以上に盛り上がらせようと思考錯誤を繰り返しながらの「ねたきりになら連」であったが、本番直前においてボランティアに病人が出たアクシデントがあったが、無事にこ度目の感動を共有でさた。

第3回は、平成7年に阪神・淡路大震災で被害に遇われた神戸の高齢者の方々を招待し、ガンバレ神戸と書いた車椅子の人たちの大団扇とねたきりになら連の大団扇が演舞場に現れると、第1別目と同じか、それ以上の声援と拍手が鳴り響いた。この大震災はボランティア元年と言わせた年でもあり、大きく「ねたきりになら連」のボランティア活動を定着させたように思えた。

そして、また驚き感動したのは、「ねたきりになら連」が、脳血管障害の方々を支援し生きがいづくりに先陣を切っていた石川委員長自らが、脳血管障害で倒れるという信じられないことが起こった。しかし、本人の強靭な精神力と先進医学、家族の温かい介護により第4回の本番に立ち踊りで復帰し周囲に大きな感動を与えた。

5年が過ぎてみると、全国各地から参加していた人たちが地元の祭りを利用して各地で「ねたきりになら連」の影響がたくさんできてきた。松山市の「野球拳ねたきりになら連」、大阪八尾市の「河内音頭ねたきりになら連」、青森県で「ケア付きねぶた祭じょっぱり隊」、鳥取県米子市やんちゃばやしに「米子ねたきりになら連」等がでさてきた。

6年目の1998年(平成10年)3月に、全国お祭りネットワーク「ねたきりになら連サミット」を明石海峡大橋の渡り始めに合わせて開催し、翌日に明石海峡大橋の中程まで車椅子48名とボランティアで往復した海上ピクニックも快晴に恵まれ大変印象的であった。

今、私が列挙しただけでも感動とドラマ続きの10年の「ねたきりになら連」であるが、事務局を持つ富士医院と石川委員長と隆子夫人のご苦労は、資金集めから始まり口に言い表せない苦労があったと思われる。また、実行委員でいつも頑張っている素晴らしい仲間達の努力とボランティアが10年を支えてさたのである。

さらに、ノーマライゼーシヨンの具現化の一つとして、地域リハビリテーションの一つとして、ボランティア活動の一つとして、人に優しい町づくりの一つとして、脳血管障害者の応援団として、様々な思いから始まった「ねたきりになら連」。保健・医療・福祉関係者を始め、学生・主婦・青年団等々、この「ねたきりになら連」に参加応援をして頂いた多くの方々の優しい手と笑顔が10年を支えてきたのです。

私たちは、大いなる感動を呼ぶ「ねたきりになら連」に万歳を言いながら、人としてあたりまえのボランティア活動に喜びを感じる「ねたきりになら連」に感謝しながら、更なる明日への感動を求めて行きたい。